読書記『禅と合気道』

  先日の産経新聞記事(令和6年1月30日付け)に俳優、武田鉄矢さんの合気道に関する記事が掲載されていました。武田鉄矢さんは天道流合気道で稽古されていらっしゃいます。天道流合気道の管長、清水健二氏は合気道開祖植芝盛平翁の最後の直弟子と言われています。その清水健二氏の著書『禅と合気道』が小弟の手元にありますので、これを機に読書記を本ブログに掲載して、この素晴らしい書籍をみなさまにご紹介いたします。

 

 鎌田師が著された”まえがき”に合気道についてとても言い得ている四字熟語があります。

 それは ” 冷暖自知 ” です。

 冷暖自知は禅の言葉で、体験しないとわからないという意味です。

 小弟は、合気道を冷暖自知するために「受け」と「継続」の二つが大切だと思います。

 

 まず、一つ目の「受け」について。

 以前のブログに「受けは愉しい」とのタイトルでつらつらと書きましたが、あらためて本書で記されている「受け」についての文章から小弟の思いを呈します。

 

 ” 合気道では"受け”が大切です。受け身とは、うまく転べばよいというだけでなく、相手の投げに対し、呼吸が合っていなければなりません。それには常に備えの心をもって稽古(受け)を重ね、それをとおして相手の動作や呼吸を読むのです。受けの呼吸がわかるようになれば、当然その呼吸がこちらの技に生きてきます。「合気道は受けが極意でもある」といわれた開祖・植芝盛平師の言葉がよく理解できます。”

(第三部 合気道の技法 p130)

 

(上記 ”備えの心”については、別頁に ” 合気道の稽古者が真に心がけなければならないのは、「真剣味」を持って稽古することです。進歩するためには、「備えの心」を常に忘れぬよう心がけることが肝心です。ここで述べています「真剣味」「心の備え」とは、初心を忘れずに継続する態度が必要ということです。” と記されています。)

(第二部 合気道をめぐって p115) 

 

 みなさんは合気道を初めて見たとき、「八百長じゃないの?」と疑った経験はないでしょうか?。残念ながら実際に八百長のこともあるかもしれません。

 しかし、合気道の稽古をある程度続けて体験的に知っていれば、それが八百長かどうか比較的簡単に見抜けます。受けが取り(技を掛ける人)に忖度し演武を派手に見せるために外連味(けれんみ)をだしているのか、あるいは受けと取りの呼吸が見事に一致して、あえて誤解を恐れずに言えば「受けが勝っている」のかということです。

 小弟が「押しかけ弟子」となった故角田師範がまだ匿名で「合気道ひとりごと」のブログを書かれていた頃、ある演武会で師範が受けを取る姿を見て「この人が角田先生ではないか」とピンときて確信したことがありました。それは角田先生の掛ける技も勿論素晴らしく、もしかしたらこの人が角田先生かもしれないと思ったあとではありましたが、(道場生の掛ける技に対する)角田先生の受けが感動的に美しく見事だったからです。15年ほども前のことですが今も瞼に浮かぶ光景です。

 技を掛ける人(取り)を見る以上に、受けに方を見ることで、その人の合気道のすばらしさを理解できることは多々あります。

 また自ら受けを取れば、取りの人の合気道の「域」がわかってきます。小弟にも経験がありますが、見事な技を掛けられた時には、不思議なことに笑ってしまいます。消極的な「笑うしかない」ではなく、なんだか、「とてつもないこと」を体験させられたことに思いがけず「笑ってしまう」のです。小弟が最初にそれを体験したのは、まだ白帯のころ、柏合気会の稽古で小林四郎さんからうけた横面打ち四方投げでした。このことも鮮明に覚えています。

 逆に残念なことに受けに対して、忖度を求めてくる取りや、なかには受けに「失礼だ」などと怨言を出すなど、有段者として以ての外の方も中にはいることは否定しません。どうぞみなさまも、それを見抜けるように稽古を続けていただきたいと切に願っております。

 

 次に、二つ目の「継続」について。

 合気道の極意は「受け」であることは上に述べた通りですが、合気道で最もむつかしいことは稽古を「継続」することだと思っています。

 

 ” 誠の心とは不断に稽古を継続する精神であり、克己と精進(継続)こそが天道流合気道の修道の根本でなければならない。

 克己と精進の精神こそ、頽廃と混迷を深めている現代に生きる武道の精神として、未来を切り開く大いなる力を持つものと信じる。 ”

(第一部 合気道の哲学 六 稽古の哲学 p108)

 

 合気道は試合がなく、ひたすら稽古を積み重ねます。そしてその稽古も型稽古が中心で、同じことの繰り返しです。比較的大きなイベントして昇級昇段審査や演武会、講習会などが偶にありますが、お祭り好きな方には物足りないと思います。

 目的意識を、昇級や黒帯獲得などに求めるかたもいらっしゃると思います。それはそれで間違いではないと思いますが、昇級昇段を重ねていく間に、稽古すること自体に愉しみを覚えていかないと稽古を続ける意味を感じられなくなる可能性があるように思います。上述の「受けの愉しみ」を覚えることも同様のことに思います。「こんな技ができるようになった」という達成感に愉しみを覚えても結果的に意味がなく、逆に言えば「こんな技に対する受けができるようになった」ことの方が意味あることで愉しいことであると思います。

 実際に四段までは審査に受かれば段位をいただくことができますが五段以降は推薦が必要となり、合気道の稽古の目的を昇段に求めても、多少なりともその目的達成の客観的基準や稽古の動機が曖昧模糊(あいまいもこ)となってしまうことは否定できないと思います。

 はっきり言えば、合気道にご利益や功徳(くどく)を求めても、そんなものはありませんよ、ということです。すなわち三八道場のテーマの一つにも挙げている「無為自然」です。

 

 ” 達磨の無功徳の話は禅宗では有名である。この無功徳こそ空の思想の実践であった。合気道を少しばかりやって、喧嘩しても大丈夫だなどと思う人は、この無功徳ということをよくかみしめる必要がある。合気道を少しばかりやっても、まったく効果がないことを知らなければならない。真の大効果とは無効果にある。無功徳にある。このことを達磨はわれわれに教えてくれる。何の役もたたないことをひたすら続けていくと、必ず大きな役に立つことがあるものである。合気道の目指す精神は無功徳にある。

 無功徳の精神が分ると、合気道はどんなことにも生かすことができるようになる。” (第一部 合気道の哲学 三 無の哲学 p55)

 

 それでは合気道の稽古とは何か、というと、 ” 漕ぎ行く舟のあとの白波 ”(第一部 合気道の哲学 p43)だと思います。確実に舟は進んでいるのだけど、その進んだ証となる”白波”はやがて消え失せ後に何も残さない。

 昇級昇段証書は、そのような白波であると思います。白波を残すために舟を漕いでいるのではありません。でも漕がないと、舟は進まない。船を漕ぐこと=稽古を続けること、だと思います。舟を漕ぐことの効果=ご利益=功徳とは、やがて消え失せる白波ではなく、舟が進んでいるということにあるはずです。でも、舟を漕いでいても逆流に戻されることもあるだろうし、舟を漕いだからといって本当に進んでいるかどうかわからない。かつ分からないからと言って、舟を漕ぐのをやめれば、どこかに流されてしまいます(流れに乗って知らず知らずに進むこともあるかもしれませんが)。舟を漕ぎ続けること=稽古を継続することに利益やご利益を求めても、そんなものは期待しない方がいいと思います。

 合気道の稽古は、ただ単に稽古しているだけ、ただ単に舟を漕いでいるだけです。それ以上もそれ以下もなし。只管打座。合気道の準備運動の一環で行う「鳥舟」(舟漕ぎ運動とも略されています)は、上記のような考えも含んでいるのかもしれないと思うとまた違った体験になるかもしれません。

 そして小弟が初心者の時に稽古を継続できたのは、(合気道という)この道は何か良いもの、素敵なものに繋がっているとなんとなく、おぼろげながらに感じることができたからです。もちろん、最初から道場の雰囲気が愉しかったからという大前提はあります。

 三八道場もそう感じてもらえる道場でありたいと思っています。

 

 上記「受け」と「継続」のほかにも、素敵なことが多く記されていますのでその一部を以下に紹介いたします。

 

 ” 清水 女性が合気道をやると美人になるといわれますが、化粧をして美しくなるのとは意味が違っても、確かにその通りだと思います。稽古を通して、次第に精神が鍛錬され、強い意志や行動力が養われ、顔や動作に美しさとなって現れてくるのでしょう。” (第二部 合気道をめぐって p117)

 小弟も、仕事で出会った方にしばらく後に再会したとき、合気道を嗜んでいることを話したら「髙木さんの姿勢がいつもいいと思っていたのですが、合気道をやっているからだったんですね」と嬉しいお言葉をいただいたことがあります。

 

 ” 清水 多くのドイツ人と接してみてまずいえることは、(中略)

日本の武道が追求してきた精神性とは、ほんらいこういうものではなかったのかと思うことがあるのです。たとえば日本の大学武道部の学生などときどき街でみかけますが、先輩にはいんぎんにお辞儀するが、他人の迷惑には全く無神経であるのには驚くことがあります。とても一人の独立した精神を持っている人間とは思えない。歪んだ精神性、虚礼、威嚇性などの悪弊を考え直すべきでしょう。” (第二部 合気道をめぐって p121)

 独立した精神のもとに「和」の武道である合気道があるのだと思います。現在「和」が馴合いや、忖度すること、あるいは忖度をもとめることなどに勘違いされているように思います。和とは美しく光り輝く言葉ですが、それゆえに眩しすぎて目に見えていないのではないかと思えることがあります(後述します)。

 

 ” 清水 合気道で試合をしないのは、求めるものがその時々の勝敗ではなく、根源的な人間の高まりにあるからです。” (第二部 合気道をめぐって p126)

 合気道が試合を行わないわけ、それは、他の武術に比べて合気道が絶対的に強いからではありません。勝ち負けにこだわると、本当のことが何も見えなくなるから試合をしないのです。

 ”人間の高まり”とは、勝ち負けを超えた、とても穏やかで平和で、かつとても満たされて豊かなものだと思います。間違っても気分を高揚させることではありません。以前に出会った合気道関係者に「エイホ、エイホと大声を出して気持ちを高揚させて氣を高めるのだ」と興奮的にいう方がいて、とても残念に思ったことがありました。声を出すことで息を吐き、気持ちを静めることはとても効果的だと思うのですが、武道において気持ちを興奮させるのは全く逆効果です。本当の「人間的な高まり」とは「真剣味」があり静粛な稽古の中で培われるものだと思います。

 根源的な人間の高まりがあるからこそ、合気道は「和の武道」であると思います。この「和」とか「氣」とか上述の「高めあう」とかいう言葉は、とても曖昧で勘違いされがちな言葉です。これらの言葉はとても輝いて見えますが、輝いているからこそ、真の光は眩しすぎて見ることができない、私たちが見えるのはその陰だけです。陰があるからこそ、あるいは私たちはその影だけは見ることができるからこそ、その裏にある光の存在を信じることができるのみだと思います。

 

  『禅と合気道』、すこしでも合気道を体験した方なら、”冷暖自知”、合気道とは何なのか、どの方向へと導いてくれる道なのか、そしてその道の先にある光輝くものとは何なのか、朧気乍(おぼろげなが)らも観じることができる書だと思います。あなたの後ろにひと時だけ残る「うたかた」の白波が続いていることに気が付くと思います。ぜひご一読ください。