合気道と八戸、南部(いわゆる青森県三八地域)との宿縁について

 合気道と八戸、南部(いわゆる青森県三八地域)との宿縁について

 

 合気道は開祖植芝盛平翁が天神真楊流・柳生心眼流・起倒流柔術、大東流柔術、新陰流などを修めた後、大正時代から昭和初期にかけて創設した武道です。

 なかでも大東流柔術の影響はかなり大きなものであることは否定できない事実でしょう。

 

 ところで、その「大東流」の「大東」とは何を意味するのでしょう?

 大東流の起源は、甲斐源氏の初代当主である源義光公に由来するとされています。

 以下ご説明いたします。

 

 源義光公は近江国の新羅明神で元服したことから新羅三郎(しんらさぶろう)と称したと言われており、さらには、義光公は幼少の頃、近江国の大東の館に住んでいたことから、大東三郎とも呼ばれていたと言われています。

 つまり、大東流の大東とは、義光公の幼少期の名称からとられたと考えられています。

 

 次に現在の青森県の三八地域、三戸町、南部町、八戸市は旧南部藩にありました。南部藩の当主であった南部氏の本貫地は甲斐国南部郷で家祖は甲斐源氏の流れを汲む南部三郎光行公で、源義光(=大東三郎)公の四代の孫にあたります。

 

 余談ですが、南部の総鎮守である八戸市の櫛引八幡宮には現在国宝指定される鎌倉時代の赤糸威鎧(あかいとおどしよろい)を所蔵しており、以前は新羅三郎義光公の甲冑とされていました。甲冑の出自の真偽はともかく、源義光(=新羅三郎=大東三郎)公と南部藩の深い由縁があることを裏付けます。

 また、八戸市には夏の三社大祭の一社として、冬にはえんぶり(三八地方の郷土芸能)の出発地として、そして初夏には加賀美流騎馬打毬が奉納される、長者山新羅神社があります。この新羅神社の「新羅」という名にも源義光(=新羅三郎=大東三郎)公との由縁があります。

 源義光公を祭神とする新羅神社は、ほかにも南部町にも十和田市にも残っています。

 

 以上でまずは一つ、合気道と青森県三八地域の遠縁が繋がります。

 

 

 二つ目の宿縁は、開祖の上京に際しての関わりです。これは、山本高英師範が合気道探求第61号に寄稿された「開祖と竹下勇海軍大将その1」の中に記載されていることですが、青森県三戸郡出身で元衆議院議員であり実業家であった梅田潔氏が、開祖の上京に際し、梅田潔氏の邸内(四谷愛住町)に住居と稽古場所を提供したことです。

 この梅田潔氏は、三戸町に東奥製糸を創立し青森県三戸町の経済の活性化に多大な貢献もされています。

 梅田氏と合気道の関わりは、竹下勇海軍大将が梅田氏に依頼してのことではありますが、合気道に三戸出身の梅田氏が大きな貢献をしたことは間違いありません。

 

 三つ目の縁は未来に宿縁となるであろう縁ということでお許しをいただきたく存じます。

 現在の合気道本部道場の指導部師範に青森県出身の師範がお二人いらっしゃいます。そしてそのうちのお一人は八戸出身の師範です。そして、開祖の直弟子の一人に数えられる本部道場師範であった西尾昭二師範も青森県出身でした。

 青森出身の本部師範が何人もいらっしゃるということは単なる偶然のことにすぎませんが、これもご縁の一つとさせていただければと思います。

 

 そしてこれは単なるわたくしごとですが、小弟に合気道を手ほどきいただいた千葉県柏道場の高柳盛永師範(七段)は、西尾昭二師範と同年齢(令和4年現在満95歳)で、現役で稽古の指導を行う師範としてはおろらく最高齢の師範です。その高柳先生が、戦後の引揚船で勤務していた時にお世話になった船長が、三戸出身の元海軍軍人であった、ということです。合気道と直接の関係はありませんが、余談としてご紹介させていただきます。

 

 こんなことをコツコツ調べたのは、この地の中学武道に合気道を導入したいという目論見があってのことです。

 そのためには合気道とこの地に歴史的な由縁があった方がいいだろうと思って調べた次第です。

 もし、他にも情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、どうぞご教授いただければ幸いです。

 

 以上