受けは愉しい

 去る9/10の稽古に、当道場顧問、山本高英師範に南部町にお越しいただき稽古指導いただきました。また、遠くから他道場の方にもご参加いただき、改めて御礼申し上げます。

 当日、稽古を始めるにあたり、山本先生から「合気道稽古における受けの大切さ」についてご説明いただきました。

 以前より山本師範は受けの重要性についてよくお話しされていましたが、今まで小弟自身の技量不足のため、本当の意味での理解が不足していました。

 現時点でも小弟の技量不足は相変わらずで、自分の腑甲斐なさを痛感する次第ですが、改めて今回、山本先生の受けを取らせていただき、気が付くことがございましたので、ここでいったんまとめて、本ブログにてご報告いたしますこと、どうぞお許しください。

 

 山本師範がおっしゃたことでとても印象的な言葉をまずご紹介します。

 

「合気道の稽古において、準備体操の時間を除いて、稽古時間のおよそ半分を受けの時間に費やしています。この時間を有効に活かしますか?それとも無駄な時間としますか?受けの時間を有効に活かすことができれば、そうでない人との間に合気道の上達に2倍の差が生じると思います」

 

 そして、最初の転換動作において、受けの動きとしてご指導いただいたことは

 

「取りの手首をつかんだ(受けの)腕の肘が、掴んだ場所の真下にあるようにする」

 

ということです。

 受けの肘が接点の真下にあることで、取りの腕をしっかりとつかめます。

 

 小弟の解釈ですが、しっかりと取りの腕を掴むためには、「武の指」(これも詳しくはいずれ改めてブログにしますが、具体的には薬指と小指のことです)が取りの腕から離れないようにする必要があり、そのように取りの腕を掴むと必然的に掴んだ取りの手首の真下に自分の肘がきます。

 

 肘が真下にない、すなわち武の指で掴むことができないと、容易に手解きが掛かってしまい、取りによる二次攻撃が可能な状態となってしまいます。 

 言い換えれば、掴んだ手首の真下に自分の肘があることで、取りによる二次攻撃を抑制することが可能となり、後述する「取りの技を未完に終わらせること」が可能となります。

 

 もちろん、肘だけでなく、受けの「軸」がその一の腕(手首から肘まで)のラインに揃っていなければしっかりとつかめないので、受けの内膝、足の「ウナ」(土踏まずの中の内くるぶしの下の部分)などもそのラインに揃えて、腰が入った状態で受けることが必要と考えます。

 

 この軸を揃えるという感覚は、近年、小弟が指導を受けている合気道本部道場指導部の森智洋師範が常々説かれている「軸」の意識の重要性から得た気づきによるものです。

 軸の意識は、本来、武道的な身体遣いには非常に重要で、合気道においても技をかける「取り」にはなくてはならないものですが、特に合気道の稽古においては、受けもその軸の意識を共有することで、稽古時間すべてを充実した有益なものとすることが可能となります。

 

 小弟は稚拙ながら、転換動作は手解きの「虚」である、あるいは「嘘」だと考えています。この「ウソ」についてはまたの機会にまとめたいと思いますが、詳しくは角田師範のブログ「合気道ひとりごと」をご参照ください。

⑮ 《ウソ》 https://blog.goo.ne.jp/gasyojuku/e/158660061b732c8c61f9f27c10ca3b60

 

 角田師範は、小弟に合気道の第二の手ほどきをいただいた先生で、私も角田師範にならって、角田先生の押し掛け女房ならぬ押し掛け弟子だと勝手に思っています。角田先生は非常に残念なことに2019年秋に鬼籍に入られました。角田先生であれば、このコロナ禍をどう思われたのだろうかと、しばしば考えてしまうことがあります。角田先生ならこうしただろうなと考えることが今も小弟の心の支えとなっています。

 

 さて、先述の

『「受けの第一の目的」は、「取りの技を未完に終わらせること」』

について、これは故角田稔師範の教えです。「自分の身を守る」ことは受けの目的ではありません。自分の身を守ることは、自分が生き残ることは前提として当たり前のことであり、私の好きな自動車会社スバルの掲げるスローガンに例えると「0次安全」のようなものです。柔道の受けと合気道の受けの決定的な違いがここにあります。このことに関して角田師範の2007/5/7投稿のブログから抜粋いたします。

 

『受けの稽古は取りの稽古と比べて武術的に同等の価値があります。それはどういうことかというと、受けは取りに協力している風を装って、実は取りの技を未完に終わらせる稽古をしているのです。』

 

 この角田先生のご意見が記されているブログのページを以下に記載いたします。

 ⑲ 受けは楽しい

 https://blog.goo.ne.jp/gasyojuku/e/b3a0b0e0aa78c9515a4b43e924cc7920 

 

そして、さらに受けに関する角田師範の教えとして、2013/11/11投稿のブログから、

 

『取りの技法に合理性がなければならないのと同様、受けの動きにも合理性がなければならないというのがわたしの考えです。』

 

『つまり、ついていくかいかないかは本来は受けの意思によるものです。ついていかない方が良いと受けが考えればついていかない、ついていった方が良いと思えばついていく、そのように受けが主体的に判断すべきものなのです。その判断の材料は何か、それは受けの側から見た間合い(位置取りやタイミング)です。間合いは取りだけのものではありません。受けだって逆転の起死回生をねらって自分有利の間合いを作るべく努力する、そこに武道稽古の意味があります。』

 

 上記引用ブログ

 219≫ 受けだって主役

 https://blog.goo.ne.jp/gasyojuku/e/96f16ea08f4d9e286c006352fa6b198f 

 

 合理的な身体捌きは、技をかける取りだけでなく、普通にはあまり注目されない受けにも必要だということです。

 

 このことに気が付いてから、改めて受けが楽しく(愉しく)なっています。受けは体幹を鍛えます。今年75歳になられた合気道三沢道場の松本洋智先生は、「受けが取れなくなったらおしまいじゃ」とおっしゃり、毎日受けの稽古は欠かさないそうですが、本当にその通りだと思いますし、実践されている松本先生を心から尊敬します。

 

 また、「受け」で得られる情報は多大です。指導者は技の掛け方を知らせるのと同等かそれ以上に、「こういう受けのかたちになるように技をかける」とか、「こういう受けかたをやってみましょう」と知らせた方が、道場全体のレベルアップにつながるような気もしています。

 

 受けはそれだけ、奥深いし、一言で言えば、やはり「受けは愉しい」。

 愉しい稽古をするためにも、ぜひ受けを愉しみましょう。

 

 

 

 追記

 いつか、角田先生を偲ぶ会を開催したいと思います。先生の特別講習会にいらしていた何名かの方とは連絡を取り合っていますが、まだ小弟からの連絡が取れていないかたで、もしこれを見た方がいらっしゃいましたら、ぜひご連絡いただければ幸いです。